「まぼろし天狗」

 

「まぼろし天狗」

    1962812 東映京都作品)

  脚本・結束信二 

  監督・中川信夫

 

  <配 役>

   浅川喬之助、守屋周馬 

         ・・・大川 橋蔵(2役)

   玉虫のお艶  ・・・桜町 弘子

   志   乃  ・・・三田 佳子

   松永 大記  ・・・月形龍之介

 

   明神の清吉  ・・・高田 浩吉

ものがたり

 賄賂横行する老中田沼意次執政下の江戸。

 ある夜、田沼邸から抜け出した血だらけの裸女に出くわした町奉行与力・守屋周馬と目明しの清吉に、女は「やみのごぜん」と言い残して死んでしまう。

 怪盗を追った周馬は矢場のお艶に撃たれ、逃げ込んだ所が「天狗屋敷」。なんとその屋敷の主、浅川喬之助と周馬は瓜二つ。傷ついた周馬になりすまして、喬之助は探索をはじめるのだが・・・

 

恐怖映画の巨匠

 中川信夫監督(19051984)は時代劇に職人的な手腕をみせ、怪談物を多く手がけた恐怖映画の巨匠とされています。1905418日、京都生まれ。幼時に神戸に移り、文学青年で、シナリオを書いたり、『キネマ旬報』に寄稿したりしていました。

 戦前はマキノ映画、市川右太衛門プロ、マキノ・トーキー、東宝などに所属。35年、『東海の顔役』でデビュー、戦後は新東宝、東映、東宝などを転々としています。

 時代劇は長年助監督をした経験から、職人的な手腕をみせましたが、怪談ものに真価を発揮しました。『怪談累が淵』(57年)、『亡霊怪猫屋敷』(58年)を製作し、59年の『東海道四谷怪談』では、「古典的な様式美の中に斬新な映像美を見せながら、人間の修羅の深奥を覗いたもので、中川の人生経験の集積と、職人的修業の映画テクニックの集大成」と高く評価されています。続いて『地獄』(60年)を発表。(『キネマ旬報』データベース)

 『まぼろし天狗』では「やみのごぜん」の無気味さや荒れ屋敷のセットなど、監督の経験が生かされているといえるでしょう。監督が手がけた橋蔵さんの出演作品はこの『まぼろし天狗』のみとなっています。

 

周馬と喬之助の2

この作品で橋蔵さんは、町奉行与力・守屋周馬と世の退廃をすねて「天狗屋敷」で気儘に暮らす浅川喬之助の2役を演じています。

結局、2人は兄弟だったわけですが、こうした双子の兄弟の片方がもらわれて、別の人生を歩くという設定は時代劇によく見られます。当時、双子は畜生腹といって、多産の犬や猫と同じで恥ずかしいものとされた、社会的な偏見が根にあったからでした。生まれると密かに他家へ預け、縁まで切ってしまったのです。現代では考えられない理不尽な話ですね。

 

ベストテン上位に4作品

 守屋周馬は『丹下左膳』の柳生源三郎を、浅川喬之助は『美男の顔役』の金子市之丞を連想させる役作りとなっています。手馴れた感じで危なげなく、真面目一方の周馬よりは喬之助の方が颯爽としていて魅力的なのですが、『黒い椿』、『赤い影法師』、『天草四郎時貞』、『恋や恋なすな恋』と、新境地を開いてきたあとの作品のせいか、マンネリ感が拭えないのは私だけでしょうか。

 ただ、橋蔵さんの人気は当時、衰えを知らぬ絶大なものがあったようで、後援会誌『とみい』3812月号(第8巻1号)の忘年会レポートの中に、37年度の東映売り上げベストテン上位に橋蔵さんの主演作品が4本入っていた、との報告とファンへの感謝が述べられています。

ちなみにそれらの作品は、上位から『血煙り笠』、『まぼろし天狗』、『やくざ判官』、『恋や恋なすな恋』となっていて、『まぼろし天狗』が多くのファンに支持されていたことがうかがえます。

事実、ファンの間でも作品の評価は真二つで、『とみい』誌の「批評・感想」欄に、「橋蔵さんが素敵だった」という感想がある一方、「いつまでもくだらない映画に出るのはやめてほしい」というものまで様々。

実際、毎号掲載される同欄には、橋蔵さんへの憧憬や賛辞が多くを占めていますが、他にも様々な感想、「眉の描き方がおかしい」、「歩き方に女形の癖が出る」、さらには「橋蔵さんが作品に恵まれないのは台本がよくないからで、皆でお金を出してしかるべき脚本家に書いてもらいましょう」まで。ファンの多様な思いを受け止める同欄の許容性に驚かされます。

 

さまざまな提言・企画

後援会誌『とみい』は1956年(昭和31)7月発行の第1号から最終の1982年(昭和5712月1日の第133号(数え間違いで143号とも)まで発行されています。

内容は巻頭グラビアページにはじまり、橋蔵さんの近況報告(ロケ便り、地方公演、友の会など)、ファンの投稿詩のページ「詩園」、「私の意見」、「批評・感想」、「とみいサロン」、「支部便り」となっています。

当時、橋蔵さんの後援会会員数はゆうに1万人を超えていたといわれ、日本国内はもとより、ハワイなど海外にも支部がありました。毎号、『とみい』の「支部便り」に各地で開かれた行事の模様が報告されています。

そうした中で、ひときわ目を引くのが「てっせん」というグループの存在でしょう。橋蔵さんのファンは10代の若いファンが多かったのですが、「てっせん」はメンバーの年齢を25歳以上と限定し、文章の書ける人を条件に活動していたようです。大人のメンバーだけに、感想や指摘も鋭く、橋蔵さんの演技の細部から、演じてほしい映画の原作や企画、相手役まで、さまざまな提言をしています。

橋蔵さんがファンを大切にしたという話は有名ですが、橋蔵さん自身もこうしたファンに支えられ、育てられたのかもしれませんね。

 

橋蔵さんが活躍の場をテレビに移すと、銭形平次の撮影風景や舞台公演が主な内容となっていきました。

バス旅行やファンの集いで橋蔵さんを間近に見たときのドキドキ感、お便り交換のペンフレンド募集欄、橋蔵さんのグッズを手にした喜び・・・50年以上経った今でも『とみい』のページからは、ファン一人ひとりの高揚感が伝わってくるようです。

 

 

(文責・古狸奈 2015222