「大江戸の侠児」

 

「大江戸の侠児」

     196027 東映京都作品)

  原作・山上伊太郎 

  脚色/監督・加藤 泰

 

  <配 役>

   鼠小僧次郎吉  …大川 橋蔵

   御中老・おたか …香川 京子

   吉五郎     …住田 知仁

   文字春     …青山 京子

   デッチリ権   …多々良 純

                伊豆屋の女房  …浪花千栄子

ものがたり

 御殿女中の寝顔が見たいと、デッチリ権にそそのかされて、大名屋敷に忍び込んだ次郎吉。忍んでいるところを御中老に見咎められたが、その顔は故郷の恋人おたかにそっくり。御中老に諭されて、里心のついた次郎吉は故郷に向かったが、そこはひどい飢饉にあえぎ、おたかは身売り寸前だった。次郎吉はおたかと弟の吉五郎を連れて江戸へ。途中、追ってきた文字春の言葉を真に受けたおたかは行方不明になってしまう。

 姉を失って傷心の吉五郎をなぐさめようと、御中老に会ってもらう約束をした次郎吉。だが、その当日、御中老は出られなくなってしまった。殿様の声がかかってしまったのだ。

 そうとは知らず屋敷前で待っていた次郎吉と吉五郎だったが、突如、屋敷から疾走する馬に吉五郎ははねられてしまう。

 その後、大名屋敷の御金蔵を破る怪盗が現れた。その名は鼠小僧。おたかと吉五郎を失った次郎吉の姿だった・・・

 

鼠小僧誕生秘話

 江戸の巷の折紙つき、義賊の中の義賊だと、多情多感の次郎吉が、鼠小僧に何故なった・・・

 博打だけが楽しみのチンピラやくざが、大名や悪徳商人を震え上がらせた鼠小僧になぜならなければいけなかったのか。

 この『大江戸の侠児』は故山上伊太郎氏の無声映画のシナリオ『時代の驕児』を原作とした鼠小僧誕生秘話。『時代の驕児』は無声映画として、昭和7年(1932)、稲垣浩監督、片岡千恵蔵さんで映画化され好評を博しました。それだけに橋蔵さんは並々ならぬ意欲を燃やしていたようです。

今回の映画製作に当たって、次郎吉の非常にドライなチンピラ時代に大きな魅力を感じるという橋蔵さん。ユーモラスな中に人生の哀感を漂わせ、ヒロイズムに浮かれたものでなく、チンピラ的で人間くさい鼠小僧を演じたい、と語っています。

加藤監督は原作の幾分オーバーで難解な文章に最初戸惑いを感じたそうですが、「講談」と考え、「僕の講談にしてみせる」と度胸を決めたら案外すんなりといけた仕事だった、と、山根貞男、安井善雄編『加藤泰、映画を語る』の中で述べています。

 

月代は伸び、髭ボウボウ

 映画が始まるとすぐ伝馬町牢屋の門前で、叩き五十の刑で悲鳴を上げる次郎吉が映し出されます。月代は伸び、髭はボウボウ。いつもの二枚目振りとは打って変わって、橋蔵さんはじめての徹底した汚れ役。

惚れた男のうめき声にいたたまれなくて、うろうろする文字春。ようやく刑が終わり、文字春に介抱されている次郎吉の姿はお世辞にも綺麗とは言えません。

そこに恋敵が現われ、次郎吉を挟んで大喧嘩。着物はむしりとられ、あちこち引っかき傷をつけられた橋蔵さん。女優さん2人の迫真の演技に、立ち回りよりも女の喧嘩の方が勝手が違って大変だったとか。

 

忍び込み方を伝授

ほうほうの体で逃げ出し博打場に。またもやすってしまい、その腹いせに御殿女中の寝顔が見たいというデッチリ権に誘われて、大名屋敷に忍び込むのですが・・・

この大名屋敷への忍び込み方を監督自らが伝授。

まず、多々良さんの帯を解かせ、解いた帯の一端に石をくくりつけ、松の枝にひと投げ。石の重みで帯がクルクルと巻きついたら、ポンポンと、2、3度しごいて、身体に反動をつけ塀の上に跳び乗る。とまあ、加藤監督が実演してみせたのだとか。

続いて橋蔵さんは帯も使わずにクリア。終戦直後、茅ヶ崎から東京まで湘南電車で通っていた橋蔵さん、満員電車の窓から乗り降りしていた経験が役に立ったのかもしれませんね。

 

ささやかな幸せ

おたかと吉五郎を連れて江戸へ向かう宿。ほのぼのとしたささやかな幸せが感じられる場面です。次郎吉が買ってきた着物に大喜びする2人。このまま3人で、江戸で暮せたら、鼠小僧は誕生しなかっただろうに、過酷な運命が待ち受けているのです。

東宝の香川京子さんとは初顔あわせ。

吉五郎を演じるのは住田知仁クン、のちの風間杜夫さんです。続いて制作された『新吾十番勝負』第三部にも出演。達者な子役ぶりを披露しています。

雪の降り積もる山中を1頭の馬に3人が乗っての峠越え。この日は零下5度。カメラは凍りつき、撮影にも支障が。

『大江戸の侠児』の撮影は連日深夜までという強行軍。おまけに寒さも加わって、上半身裸や薄着の場面も多く、やきいもやお茶でホッと一息。

 

怒りが爆発

おたかが行方不明になって傷心の吉五郎を慰めようと、御中老に会わせる算段をするのですが、吉五郎は馬に撥ねられて死んでしまいます。吉五郎の遺体を抱きながら絶叫する次郎吉。約束は守られず、子どもが死んでも虫けら同然で、身勝手な武士たちへの怒りが爆発します。次郎吉が復讐を誓い、鼠小僧誕生の重要な場面です。

本願寺前で行なわれたロケ。吉五郎の遺体を抱き、「だましやがったなぁ~!」と叫ぶ悲痛な声。前ははだけ、なりふり構わぬ橋蔵さんの迫真の演技は見物者の涙を誘いました。

 

独立した狂言『蜆売り』

雪の日、次郎吉が船宿で船を待っているところに、蜆売りの少年が現われ、次郎吉は蜆を全部買い上げ、汐留川に放してやります。聞くと、少年の家は鼠小僧からもらった金が原因で若旦那は捕まってしまい、姉は病気。自分が蜆を売っているという話。情けが仇になったと次郎吉は悔やみます。

この部分は落語や講談などで『蜆売り』として、独立した話として取り上げられています。

このときの撮影はビニール製の雪が敷き詰められたセット。橋蔵さんは宗包頭巾を被り、茶人風のいでたち。

桝安一家に人質にとられたおたか、文字春、デッチリ権を助けに田舎やくざに変装して乗り込む次郎吉。片目に天保銭をつけ、ズーズー弁で仁義を切る面白さ。撮影がすんだ後も方言が抜けず、ファンに「オオカワハスゾウです」と挨拶してしまった一幕も。

無事3人を助け出した後、おたかに「自分のことは忘れてくれ」と言う次郎吉に、文字春から「たとえ3日だけでもおたかさんと夫婦になるんだよ」と言われ、2人は旅立って行くのです。

 

本物の鼠小僧は?

ところで本物の鼠小僧はどうだったのでしょうか。

鼠小僧(17971832)は化政期に大名屋敷を専門に荒らした盗賊。本業は鳶職。

鼠小僧自身の自白調書「鼠賊白状記」によると、歌舞伎小屋・中村座の木戸番、貞次郎(定吉、定七とも)の息子として生まれ、10歳前後で建具職人の家へ奉公、その後鳶人足。賭博で身をもちくずし、資金稼ぎに盗人稼業。

文政6(1823)以降10年間に、武家屋敷100ヵ所、120回以上押し込み、3000両以上を盗んだと供述していますが、12000両とも言われ、実際のところはわかっていません。

天保35月、日本橋浜町の小幡藩主・松平宮内少輔忠恵の屋敷で捕縛され、市中引廻しの上獄門。その姿は美しい着物をまとい、薄化粧をし、紅までさしていたとか。小塚原刑場で処刑。享年36。墓は両国の回向院にあり、墓の破片を持っていると博打に負けない、と言われ、削られて本来の墓はなくなってしまい、現在のはその後造られたものとか。

当時の重罪は連座制だったのですが、親から勘当されていたこと、妻や妾にも捕まる前、離縁状を渡していたことから、天涯孤独の身として処刑され、他人を巻き込まなかったことが、義賊扱いされる理由のひとつ。

大名屋敷を狙ったのは、敷地が広く入ってしまえば、警備が手薄。金がある奥は女性ばかりで逃亡しやすい。町人長屋には大金はなく、商家は金はあるが警備が厳重。それにひきかえ大名屋敷は警備を厳重にすると、幕府から謀反の疑いをかけられるので、厳重にはできない事情がある。面子と対面で表沙汰にしない、などの理由だったようです。

盗った金は博打や女、酒などの遊興費に使っただけで施しをした形跡はなく、単なる泥棒というのが現在では定説になっています。(Wikipedia、小学館日本大百科全書)

とはいえ、庶民の立場からすれば、鼠小僧は義賊であってほしいですね。

 

映画出演60作目で、初めての徹底した汚れ役に扮した橋蔵さん。ファンに嫌がられるのではないかと随分心配されたようです。

しかし、それは杞憂でした。どんなに汚い役を演じても、それでも見え隠れする橋蔵さんの美しさ。汚くなれない天性の気品と美貌。逆に橋蔵さんはその後、作品によっては、役作りの上で、その美しさを消し去ることに苦労することになるのです。

 

 

(文責・古狸奈 20101018初出 2015622補足改訂)