「勢揃い東海道」

 

「勢揃い東海道」

     196313 東映京都作品)

  脚本・高岩 肇  

  監督・松田定次

 

  <配 役>

   清水の次郎長  …片岡千恵蔵

   吉良の仁吉   …大川 橋蔵

   お 新     …美空ひばり

   大前田栄次郎  …中村錦之助

    山岡 鉄舟   …市川右太衛門

                          その他東映オールスター

ものがたり

 清水の町は今売り出しの次郎長がはじめて開く花会で大賑わい。名付け親の次郎長に太郎吉を見せようと、女房のお新共々やって来た吉良の仁吉は兄弟分、神戸の長吉の訪問を受け、荒神山の縄張りをお新の父親の安濃徳に奪われたことを知る。

 安濃徳に出向き、礼を尽くして頼む仁吉。最早対決は避けられず、荒神山の闘いで、仁吉は凶弾に倒れてしまう。「安濃徳を許してやってくれ」、仁吉最後の言葉だった。

 だが、安濃徳の悪行はおさまらず、次郎長はついに立ち上がった・・・

 

10分のために映画館へ

 綺羅星のように輝く東映スター総出演のオールスター作品は、ファンにとって見逃せないものでした。この『勢揃い東海道』は片岡千恵蔵さんの次郎長もの第4作目。このころになると、さすがの東映時代劇にもかげりが見え始め、橋蔵さんが出演されたオールスター映画としては最後の作品となっています。

 一般的にオールスター作品はそれぞれのファンの期待に応えるために、各スターの見どころが分散されていて、個別に見ると1人当たりの出番が少なく、90分の物語り中、橋蔵さんが登場するのは10分からよくて20分。橋蔵さん以外眼中にない私は、いつも物足りない思いで映画館を後にしたものでした。それでも、その10分のために見に行ってしまうのがファンというものなのでしょう。

この作品では、橋蔵さんは吉良の仁吉に扮し、義理と人情の板ばさみになる若き侠客を好演しています。市川右太衛門さんはじめ歴代の名優といわれた人が演じた役柄を、女房お新役の美空ひばりさんを相手に、愁いを帯び苦悩に耐えながらも、毅然とした橋蔵さんならではの仁吉を演じきりました。ひばりさんとの息のあったコンビも、映画としてはこの作品が最後となりました。

前半は荒神山の仁吉を中心に物語が展開していくので、橋蔵さんの出番も多く、満ち足りた気分がしたものです。それでも登場時間は作品全体の3分の1で、主演作品に比べれば短いものでしたが。

 

講談や浪曲で人気者になった仁吉

この吉良の仁吉でお馴染みの荒神山は、慶応2年(186648日、伊勢の国荒神山(現鈴鹿市高塚町)で起きた博徒同士の私闘で、荒神山の縄張りを巡って、神戸長吉(かんべのながきち)と穴太徳(あのうとく 安濃徳とも)が争い、神戸側22名に対し、穴太徳側130名が激突。神戸側で戦った仁吉は猟師の火縄銃で撃たれ、命を落としました。享年28

その話を神田伯山が講談に、広沢虎造が浪曲『次郎長伝』で上演し、「血煙荒神山」として、広く知られるようになりました。村田英雄さんの歌謡曲『人生劇場』にも仁吉の名は登場しています。

実際の仁吉に結婚歴はないのですが、徳次郎の妹、お菊(『勢揃い東海道』ではお新)を娶っていて、義理のため離縁するという形に作りかえられていったようです。

仁吉の墓は生誕地の吉良町源徳寺(真言宗)。荒神山観音寺には仁吉の碑が広沢虎造によって建てられています。ちなみに荒神山観音寺はもとは高神山と言っていたのが、講談や浪曲で有名になり、いまでは荒神山が主流になっているということです。

 

「幕末の三舟」鉄舟と次郎長

映画の後半に登場してくる山岡鉄舟(183688)は勝海舟、高橋泥舟と「幕末の三舟」と呼ばれ、剣、禅、書の達人でした。

1868年の戊辰戦争のとき、勝海舟の使者として駿府に赴き、江戸開城について勝・西郷会談の道を開いたことで知られています。

1869年(明治2)、静岡藩大参事となった鉄舟は次郎長とも交流がありました。

明治になってから博徒をやめた次郎長は、静岡茶の販路拡大のため、清水港を蒸気船の入港できる港にと外港整備を訴えたり、定期航路船や開墾に携わるなど、地域の発展に尽くしたと伝えられています。

 

頭を悩ませたタイトルの書き出し

この『勢揃い東海道』では、映画の出演者を示すタイトルの書き出しが、横書きで2名ずつ下から上へと流れています。おそらく関係者が随分と頭を悩ませた結果ではないかと思います。

普通、映画の画面やポスター、チラシなどに載るタイトルの書き出しは役柄の重要度(主役、準主役)、人気や役者の格などで厳然としたランク付けがあって、名前の掲載される序列が決まっていました。映画の画面ならば一番最初、ポスターやチラシなどの印刷物ならば右端が主役など、トップの座とされていました。次の準主役は最後か、左端となります。

『丹下左膳』を例にとると、出演者名最初の画面に主役の大友柳太朗さん、準主役の橋蔵さんは一番最後、次いで前から2画面目に戻り、次は最後から2画面前、というのが標準的な序列となっています。最初、最後、最初から2画面目、最後から2画面手前と、外側から中側へと主要な順に名前が連なっていくのです。

 

序列へのスターのこだわり

東映オールスター作品の場合は、御大と呼ばれる片岡千恵蔵、市川右太衛門の二大俳優が最初と最後を飾るのは良いとして、問題なのは次の中村錦之助、大川橋蔵、東千代之介の3人の扱い。たいていは3人一組で画面に登場していますが、錦之助さんの母親、小川ひなさんが、錦之助さんの名前がどんなときでも橋蔵さんより右側に書かれていないと承知しなかった、ということが、元東映社長、岡田茂氏の著書『波瀾万丈の映画人生』(2004)に記されています。

「歌舞伎の世界は、本当に格式や扱いにうるさい。錦之助さんと千恵蔵御大はまだいいほうだった。問題は大川橋蔵さんがからんだときである。錦之助さんと橋蔵さんが映画で共演したときは、いつでも錦之助は右にしてくれ、と要求された。

いや、それは困るで。いつでも、あなたの都合に付き合えと言ったって、橋蔵もそんなに付き合わないと言うぞ。今は橋蔵もこれだけ力をつけて人気が出てきたんだから、そんなことは通らないよ、と言ったが錦之助さん側は納得しない。(中略)

こんなことはとても付き合い切れないから、これは騙してやれ、と思った。

錦之助さんを頭にするポスターと、橋蔵さんを頭にするポスターを半分ずつつくった。(中略)京都には橋蔵さんが書き出しのポスターを貼ればいい。錦之助さんは東京に帰っているだろうから、東京は錦之助さんが書き出しのポスターを出す。だけど見つかる可能性があるから、1枚ぐらいは京都にも錦之助バージョンのポスターを出しておいた。(中略)

電話があまりかからないころだった。かかってきたとき、小川ひなさんはもう怒っていて、大変だった。・・・看板のことまでは僕も気づかなかった。(中略)すべての看板を変えるしかない。・・・看板を全部直した。夜中に終わりましたと連絡があったときはさすがにホッとした。それほどスターやその周辺は書き出しにはうるさかった」

そこまで配役名の序列にこだわる必要があるかどうかは別として、強引とも言えそうなほど、息子に肩入れできる母親の存在があった錦之助さん。6代目菊五郎という強力な後ろ楯を失った橋蔵さんに思いを馳せるとき、思わず目頭が熱くなってしまうのです。

 

 

(文責・古狸奈 2011425