「天草四郎時貞」

 

「天草四郎時貞」

     1962321 東映京都作品)

  脚本・石堂淑朗/大島 渚 

  監督・大島 渚

 

  <配 役>

   天草四郎時貞 …大川 橋蔵

   桜      …丘 さとみ

   お  菊   …立川さゆり

   多賀主水   …佐藤  慶

   浪  人   …戸浦 六宏

   松倉勝家   …平 幹二朗

   田中宗甫   …千秋  実

   右衛門作   …三国連太郎

 

   岡新兵衛   …大友柳太朗

ものがたり

 徳川家光の治下。島原、天草のキリシタン百姓はキリシタン禁制とその苛酷な政治下に喘いでいた。藩主松倉勝家の意を受けた代官田中宗甫は幕府直参多賀主水の督励を背景に、キリシタン弾圧に努め、見せしめのため残虐な刑を執り行なっていた。

 そうした中、南蛮渡来の油絵の魅力にとりつかれた右衛門作は何度か信仰を裏切り、拷問に耐えかねて、信者の名前を漏らしてしまう。

 天草の救世主と仰がれるキリシタン青年、天草四郎は百姓と共に立ち上がる日を待っていたが、血気にはやる農民たちに時期尚早と戒めるのだった。

 四郎の武士時代の友人、岡新兵衛とその妻で、昔四郎の恋人だった桜・・・ふたりもまた、キリシタン弾圧の抗争に巻き込まれていく・・・

 

新しい時代劇を求めて

 黒澤明監督の『椿三十郎』が日本の時代劇に旋風を巻き起こした年、新しい時代劇を求め、橋蔵さんを主演に大島渚監督を迎えて製作されたのが、この『天草四郎時貞』でした。

 当時、東映の時代劇には田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔、沢島忠とそうそうたる監督がいた中で、『椿三十郎』の黒沢明、『人間の条件』の小林正樹といった現代劇畑の中の一人、大島渚監督に白羽の矢が立てられたのでした。

 大島監督は『日本の夜と霧』、『太陽の墓場』、『飼育』などで、日本ヌーベルバーグ旗手として脚光を浴びていました。大島監督によって新しい時代劇の旋風を起こすべく期待されてのクランクインだったのです。

 大島監督と橋蔵さんとのご縁は雑誌『平凡』613月号誌上に、フォトストーリー「雪の鶴」を監督が書かれたことがきっかけ。いつかは大島監督に映画を撮ってもらいたいと橋蔵さんは願っていらっしゃったとのことでした。

 大島監督は現代劇と時代劇を区別して考える必要はない。オーソドックスな手法を用いた場合でも、新鮮な時代劇、新しい時代劇を生み出してみたい、と語り、友人に宛てた手紙には「この作品を傑作にしてみせる」と意気込みを述べています。

 

神の子の再来天草四郎

 天草四郎(16211638)は江戸時代、将軍家光の治世下に起きた島原・天草の乱の一揆側の首領と仰がれた少年。本名は益田四郎。キリシタン大名小西行長の遺臣、益田甚兵衛の子として、一般的には天草諸島の大矢野島に生まれたとされています。

 小西家滅亡の後、益田家は浪人百姓として宇土に居住。四郎は生まれながらにしてカリスマ性があり、聡明で容姿端麗、生家が裕福だったことから長崎留学をするなど、豊かな教養を持っていたと伝えられています。

 1613年(慶長18)、追放されたマルコス宣教師が「25年後に神の子が出現して人々を救う」と予言した25年目、長崎留学から帰った四郎は様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂され、仰がれるようになりました。

 もっとも、実際は一揆を指揮した庄屋層や浪人たちが集団を組織し、結束を維持するために156歳の四郎を天から下った救世主に仕立て、奇跡的な事象を演出したのでしょう。四郎の名は一揆勃発時から中心人物として、幕府方に認識されていましたが、軍事上の指揮をとったとは考えにくいようです。

 1637年(寛永1410月、島原で農民が蜂起。同年123日、原城入城。翌1638年(寛永15228日、幕府軍12万人に一揆軍37000人が抵抗、全員討ち死にし、幕府を悩ませた天草の乱は終わりとなりました。この間、篭城しながらも、信仰の結束を崩さなかったと伝えられています。

 

長いカットと遠景描写

 この『天草四郎時貞』は制作手法や視点に、他の時代劇にはみられない多くの特色があげられます。

まず、時代劇も現代劇と同じ、との観点から、メイクも自然体。天草四郎も太い眉、メバリのない眼、肌は白塗りはせず褐色、鬘も地髪を生かし、横ビンにクマの毛を植えつけるといったもの。今までの橋蔵さんにはみられない徹底した汚れぶりでした。

映像表現も今までとは違って異色なものでした。電灯のない江戸時代の実情に近づけ、照明も落とし、全般的に明るい東映作品に比べて数段暗い中でカメラが回されました。

カットも普通より長く、1カットが7―8分。最後の1分で、くしゃみでNGにならないよう、風邪引きの人は見学お断り。スタッフもスタジオから出なければならないほど、緊張した中での撮影だったようです。

映画の展開は全体的に遠景から群衆を捉えるといった描写が多く、一方、アップは通常より少なく、普通1本の映画の脚本にはシーンナンバーが100120あるのに、この『天草四郎時貞』では39シーンしかないという徹底ぶりでした。心理描写や状況描写を大切にしたい、という監督の意向だったようです。

肝心なアップにしても逆光か、照明が暗く、顔にかげりが出て表情がはっきり見えないのが多いのです。また、一部は演劇の舞台に見られるような手法が用いられ、焦点をあてられた人物以外は闇に消えてしまう描き方。新劇の舞台を見ているような錯覚さえしてしまうほどです。

ひとりのヒーローを描くというより、群衆劇として人々の大きなうねりを描きたかったようで、亀岡市に間口20間、奥行16間の広大な代官屋敷のセットを組んでの焼き打ち場面や、宝塚市の蓬莱峡でのミノ踊りの処刑や、大行進などの場面では、専属俳優100名のほか、エキストラ700名を動員しての大がかりな撮影が行なわれました。実際、どの場面もスクリーンからはみ出しそうな人の多さなのです。

この作品は大友柳太朗さんや丘さとみさん、三国連太郎さんのほか、新劇畑の人たちが多く出演していて、戸浦六宏(創造社)、吉沢京夫(劇団新演)、芦田鉄雄(人間座)、佐藤慶(にんじんくらぶ)さんなど、異色な顔ぶれとなっています。

 

声は聞こえど姿は見えず

私にとって、この『天草四郎時貞』は難解で、理解するのに手こずりました。何回か繰り返し見て、ようやく理解できるといった按配だったのです。

何しろ、画面がよく見えないのです。白黒の暗い画面にやたら大勢の人がうごめいていて、どこに誰がいるのかさえ、よくわかりません。橋蔵さんの声は聞こえるのですが、姿は見えず、何度か繰り返し見て、立ち上る煙の陰にいるらしいのがわかるといった有様。もちろん出陣を止めようとする丘さとみさんの桜も煙の陰。炎に包まれていく緊迫した中での四郎と桜を描きたかったのでしょうが、屋敷全体を撮影するのと並行に、煙に遮られたふたりの表情も映し出してほしかったと思ってしまいます。

次に、効果的にアップが撮られていないのです。必要と思われる箇所にアップがありません。新兵衛と四郎の密会場面を窓から覗く桜、ミノ踊りの火をつけられたキリシタンや右衛門作の表情・・・大きく映し出された方がより効果的だったことでしょう。

アップが少ない上に、あっても、逆光か陰になっていて、細かな表情が見えないのです。したがって、その時々の登場人物の心の動きが全く読み取れません。

特に遠景の画面は多くの場合、手前に群衆の後姿があって、中心に立つ人物は逆光か横顔、目を凝らしてみても細かい表情までよくわからないのです。舞台的な演出効果を狙ったのかもしれませんが、舞台ならば出演者は客席に向かって立ち、せいぜい斜め横に体を構え、後姿を客席に見せることはありません。スポットライトが正確に中心人物をとらえていますから、自然と眼もそちらに向くのです。

遠景描写で成功していると思われるのは燃え上がる代官屋敷の前での、右衛門作とお菊の映像でしょう。

 

監督によって違う映像表現

最近になってようやく、『天草四郎時貞』をスクリーンで見ることができました。

残念なことに、私はこの作品をリアルタイムで見ていないのです。封切り後4日で打ち止めになってしまい、見そびれていたのです。

その後はビデオで見るだけ。我が家の32型のやや横長に延びてしまう画面では、やや太って映る橋蔵さんに悲壮感はなく、うごめく群衆のみが脳裏に残るだけなのです。

天草四郎と武士時代の友人の岡新兵衛。その妻で四郎の昔の恋人、桜。油絵の魅力にとりつかれた右衛門作・・・登場人物の設定だけでも十分に興味をそそる筋立て。面白い映画になるはずでした。しかし、表現が抽象的で、監督によって映像表現が変わるものだということを実感させられた作品でした。

 

描いてほしかったカリスマ性

今回、映画館の大型スクリーンで、『天草四郎時貞』を見て、ほんの少し監督の意図したものがわかったような気がしました。うごめく群衆も大画面の中でははっきりと映し出され、映画はやはり映画館で見るもの、との感を新たにしました。

しかし、それでもこの作品は監督の独りよがりと先走りの感を拭い去ることはできませんでした。その映像表現が監督の個性だといわれれば、映画評論家でもない私は黙って肯かざるを得ないのですが、観客が未成熟なのか、作品が説明不足なのか、どちらも不完全燃焼の感じがしてならないのです。

「キネマ旬報」の映画批評で、戸井田道三氏は「椿三十郎はどこの馬の骨だかわからなくてもおもしろい。だが天草四郎は天草四郎でなくてはこまるのだ」との一文を寄せていましたが、実際、天草四郎が何者なのか、が描けていないのです。ひとりのヒーローを描くのでなく、群衆劇を描くのだとしても、天草四郎の独自性が描かれなければ、物語そのものがよくわからなくなってしまうのではないでしょうか。

最後の岡新兵衛らが処刑される場面で、今まで暗い画面の多かった映像が、明るい光を当てられ、四郎の顔が大写しになるのは、四郎が神格化していく象徴なのでしょうか。それまでの四郎は普通の青年。村人たちが慕うようなカリスマ性は感じられないのです。別に橋蔵さんを美しく撮る必要はありません。しかし、村人に敬われるカリスマ性が描かれなければ、橋蔵さんが天草四郎を演じる必要はなかったのではないか、と思ってしまいます。

 

見せ場のないスターたち

映画は映像という虚像の芸術です。虚像は実像ではありません。江戸時代の灯は蝋燭だからと、見極めのつかないほど暗い画面にする必要はなかったのではないでしょうか。

それに、製作者の意欲は買うものの、映画はやはり面白いことが基本だと私は思っています。社会性や暗い部分を取り上げる作品であったとしても、いくらでも面白くできる方法はあったはずです。難解で疲れる作品は製作者のひとりよがりでしかありません。

後世多くの名作を残された大島監督の芸術性を見抜く鑑賞眼が、当時の観客に育っていなかった、といえるのかもしれません。現在ならば高く評価された作品だったのかもしれません。それでもなお、芸術家より職人芸の監督の面白く美しい作品が見たいと思う私は、まだまだ映画ファンとしては未成熟なのでしょう。

映画でも演劇でもない手法にスターたちも戸惑っているように思えます。見せ場のないスターたち。近代映画の『天草四郎時貞』特集号や「ぼくの撮影春秋記」などで、嬉々として作品への豊富を語る記事を読むと、確かに意欲作、野心作であることは理解できるものの、橋蔵さん本来の魅力が生かしきれていない作品の仕上がりにもどかしさを感じ、何だか橋蔵さんが気の毒に思えてしまうのです。

 

 

(文責・古狸奈 2013429