「水戸黄門」

 

 

「水戸黄門」

    196087 東映京都作品)

  脚本・小国英雄 

  監督・松田定次

 

  <配 役>

   水戸  黄門  …月形龍之介

   佐々木助三郎  …東千代之介

   渥美 格之進  …中村賀津雄

   水戸中将綱條  …大川 橋蔵

   放駒の四郎吉  …中村錦之助

   井戸甚左衛門  …大友柳太朗

   紀伊大納言光貞 …市川右太衛門

   柳原大納言資廉 …片岡千恵蔵

 

       (その他オールスター)

ものがたり

 元禄4年、江戸は相次ぐ大火に見舞われていた。

 江戸に出た黄門さま主従が一膳飯屋で知りあった浪人、井戸甚左衛門。だが、彼の長屋で村尾が殺され、井戸は町方に捕らえられてしまう。

 一方、江戸城では庶民の困窮をよそに、華やかな宴が催されていた。

 相次ぐ大火の責任を追及され、苦しい日々を送る黄門の一子、綱條・・・

 江戸の放火はどうやら由比正雪の残党の仕業らしい・・・

 

頭を悩ますスターの割り振り

 この作品は徳川幕府の大名政策の一環として、藩の改易や取り潰しによって、主家を失った浪人たちが幕府転覆を謀って画策するのを、おなじみ黄門さま主従の活躍で陰謀を阻止する物語です。

 月形龍之介さんの水戸黄門、東千代之介さんの助さん、中村賀津雄さんの格さんを中心に、オールスター作品ではいつもは主演の片岡千恵蔵さん、市川右太衛門さんが脇にまわり、豪華な配役で繰り広げられる東映黄金時代ならではの贅沢な娯楽作品となっています。

 オールスター作品製作の脚本家や監督の悩みは出演するスターたちの割り振りだそうで、一例を挙げれば、両御大の片岡千恵蔵さんと市川右太衛門さんの出演場面はどちらにも差が出ないよう、時間からコマ数まで同じに配慮されたと伝えられています。

 それでも映画であればドラマの進行上、目立つ得な役どころはあるわけで、この作品では大友柳太朗さんの井戸甚左衛門と中村錦之助さんの放駒の四郎吉が、観客を笑いの渦に引き込んでいます。

 「い」と「え」、「し」と「す」が逆になる東北弁の特徴をとらえて、井戸甚「えどずん」こと井戸甚左衛門の朴訥で心底人がよい浪人を大友柳太朗さんが好演。画面いっぱいに存在感とほのぼのとした温かさが広がります。

 一方、江戸っ子で気風がよく威勢のいい錦之助さんの放駒の四郎吉。井戸甚とのテンポの差が絶妙な笑いを呼び起こしています。

 

気高さと哀しさ

 さて、我らが橋蔵さんは水戸黄門の一子、中将綱條。相次ぐ火災と庶民の困窮をよそに贅沢三昧の大奥と政治を省みない将軍綱吉への進言に悩む副将軍。じっと耐え忍ぶ役どころで、派手さはありませんが、にじみ出る気品と風格は他のスターの追随を許しません。

 橋蔵さんの持つ気品や風格は天性のもので、誰かれなく真似できるものではない、と北大路欣也さんは語られたそうですが、橋蔵さん自身、ご自分の個性を充分承知の上で、さらにより美しく見せるための努力を常に重ねていたといいます。「新吾」の髪型や衣裳、「銭形平次」の髷のサイドの膨らみや立ち姿、投げ銭のフォーム・・・

そういった個性を関係者が意識してか、オールスター作品での橋蔵さんは殿様や武士の役が多いのですが、どの作品も橋蔵さんが登場するだけで、スクリーン全体に気品が漂ってくるように思います。

死を決意して登城する前の奥方役の大川恵子さんとの別れの場面。スチール写真だけ見ると、『赤穂浪士』と見間違いそうですが、「大川コンビ」の相手を思いやる心を内に秘めた演技は世阿弥の「秘すれば花」に通じるもの。気高さと哀しさがより強調されています。

 

兄の子綱條

ところで、この中将綱條は水戸光圀の実の子ではありません。光圀の兄頼重の子で、実際は叔父、甥の関係。光圀が兄頼重をさしおいて、水戸藩主になったことを悔いて、我が子頼常を出し、兄の子、綱方を迎えましたが早世したため、その弟綱條を養子にし、水戸藩を譲っています。

光圀は水戸藩を継ぎましたが、兄頼重は、四国の讃岐高松の生駒高俊氏171800石がお家騒動で改易となったため、そのあとに入り、高松松平家を創設、徳川一門を強固なものとしました。

その後、光圀の子頼常がその養子となったことが、水戸黄門の前作『天下の副将軍』でのモチーフとなっています。

 

幕府の大名政策

徳川幕府は大名が力を持たないよう、断絶、改易、転封などの大名政策を推し進めました。将軍家光の時代には加藤忠広氏はじめ28家が改易・断絶させられています。世継ぎがいないための無嗣断絶・死亡16、お家騒動4、法律に抵触するもの8となっていて、外様大名から没収した改易没収高は2513000石に上りました。幕府は改易した領地の江戸に近い所や要所に親藩や譜代大名を、遠隔地には外様大名を置き、徳川幕府を強固なものとしました。

そのため主家を失った浪人は4050万人に上り、家光死後間もなくの慶安4年(1651)、由比正雪、丸橋忠弥を中心とした慶安の変が起きたのです。

由比正雪は慶長10年(1605)、静岡県静岡市清水区由比の紺屋の子として生まれましたが、軍学者楠木正辰の弟子になってから才能を発揮。彼の軍学塾「張孔堂」には3000人の門下生が集まったということです。

結局、慶安の変は密告者によって、事前に発覚。正雪は自害して果てました。享年47

この変により、幕府は武断政治から文治政治へと移行。世継ぎに養子を許すなど、無嗣断絶は廃止され、家綱の時代には改易数は減少しました。

しかし、綱吉の時代になると、賞罰厳明、綱紀粛正の幕府の政治方針と、綱吉の偏執狂的な性格から、法律的理由による改易が増加しました。この時期、有名なのは「忠臣蔵」の浅野家の断絶です。(「歴史の勉強・大名改易録」)

『水戸黄門』ではこうした主家を失った浪人たち不平分子と、材木の値上がりで暴利を貪ろうとする材木商が結託し事件を引き起こしていくのです。

 

事件が解決したあと、一膳飯屋で水戸藩へ推挙するという黄門さまの勧めを断わる井戸甚左衛門。

「人間、1年に2石もあれば充分だべ。それ以上あるから余分な苦労をしなきゃならねえだよ。32万石の水戸中将さまは319998石分、苦労するだよ」

この台詞、経済が全ての現代に生きる私たちへの戒めといえるかもしれません。

 

 

(文責・古狸奈 2012525