「富士に立つ若武者」

 

「富士に立つ若武者」

      (196149 東映京都作品)

  脚本・鷹沢和善 監督・沢島 忠

 

  <配 役>

   源 頼朝 …大川 橋蔵

   源 義朝 …月形龍之介

   佐々木盛綱…平 幹二朗

   佐々木定綱…沢村宗之助

   鬼頭太  …田中 春男

   志  乃 …桜町 弘子

   北条政子 …三田 佳子

   北条宗時 …岡田 英次

   文  覚 …大河内傳次郎

                平 兼隆 …安井 昌二

ものがたり

 平治の乱に敗れた源義朝の三男、頼朝は一命を救われ、伊豆の配所に流されてから10年、流人としての生活を送っていた。頼朝の周囲には常に監視の目が光り、嫌がらせが続いていた。

 ある夜、北条時政の娘、政姫の美しい姿に心ひかれる頼朝。頼朝と政姫の心は急速に接近し、富士の裾野を馬駆けるふたりの姿が見られるようになった。

一方、源氏と北条とが手を組めば危険と察した平兼隆は政姫をくれ、と時政に迫るのだった。

 平兼隆と政姫の挙式の当日、頼朝は決起、今こそ源氏再興のとき・・・

 

流されてから決起するまで

 源頼朝(11471199)は1192年、鎌倉幕府を開き、武家政権を樹立した初代征夷大将軍。源義朝の三男で、母は熱田神宮宮司・藤原季範の娘、由良御前。母の身分が高かったことから、三男坊にもかかわらず源氏の嫡流として育てられました。妻は正室の北条政子のほか、八重姫、亀の前など数人の名前があげられています。

 平治元年(115912月、平治の乱で捕えられ、三条河原で処刑されるところを清盛の継母、池禅尼の助命嘆願で一命をとりとめ、伊豆蛭ヶ小島に流されました。助けられたのは、頼朝が池禅尼の早世した子、平家盛に似ていたからだといわれています。

 配所での記録はほとんどなく、箱根権現、走湯権現を信仰し、源氏一門を弔う読経三昧の日々を送っていたとされています。

『曽我物語』には、31歳の時、10歳年下の政子と知り合い、時政は伊勢平氏の庶流、和泉守平信兼の子・平(山木)兼隆に政子を嫁がせようと、兼隆のもとに送るのですが、政子はその夜のうちに抜け出し、頼朝の妻となったと記されています。フィクション性が高いとされる『曽我物語』ですが、いずれにしろ、頼朝と政子の結婚は、娘の大姫の生年から治承2年頃だろうと推定され、頼朝が挙兵する2年ほど前のことでした。

 1180(治承4)、高倉宮以仁王が平家追討の令旨を諸国の源氏に発し、頼朝も挙兵。第一目標は伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷と定め、北条時政らが襲撃、兼隆を討ち果たしました。

 その後、数々の源平合戦絵巻が繰り広げられていきますが、この作品では頼朝が伊豆に流され、決起するまでの流人として耐え忍ぶ頼朝一党と、頼朝と政子との恋を中心に物語が展開していきます。

 

容貌優美にして言語文明なり

 大和絵肖像画の傑作として、国宝に指定されている京都神護寺蔵の伝源頼朝像は今では足利直義説もあり、頼朝がモデルだったかどうか疑われているものの、気品と知性が溢れ、風格ある美丈夫に描かれています。

 事実、実際の頼朝は『源平盛衰記』や『平家物語』などによると、容貌優美にして言語文明なり、とあり、また大山祇神社に奉納した甲冑から、身長は165センチ前後あったろうと推測されています。当時としては背が高く、なかなかの男ぶりで、源氏の棟梁としての資質にも優れていたものがあったようです。美男だったといわれる源頼朝は、まさに橋蔵さんにぴったりの役柄だったといえるでしょう。

 しかし、頼朝を主人公にした物語は少なく、弟の源義経の方がはるかに多くの映画や芝居にとりあげられています。

実際の義経は『平家物語』に「九郎は色しろう、せちいさきがむかばのことにさし出でて、しるかんなるぞ」と書かれ、色は白く、背は低く、出っ歯ですぐにわかるとあり、書き手が平家側で、表現上多少悪く書かれているかもしれませんが、後世伝えられるような格別な美男ではなかったようです。それが、兄頼朝に滅ぼされたことで、悲劇の武将として次第に美化されていき、判官贔屓という言葉まで生まれました。

義経は二枚目スターなら必ずといっていいほど、演じる役どころですが、意外なことに橋蔵さんは義経を演じていないのです。橋蔵さんの義経が実現していたら、美しく哀しい義経英雄伝説に基づいた最高峰の作品ができあがったのではないかと、少しばかり残念な気がします。

 

現代に通じる若者の恋

 群集シーンの撮影を得意とする沢島監督ならでは御殿場ロケが話題を呼びました。富士を背景に1500人の武者、800頭の馬が出陣するシーンは午前3時から開始されました。

 また、現代に通じる若者の恋を描こうと、現代的なラブシーンを目指し、口をふさがれた政子が頼朝の手を噛んだり、61年ごろの時代劇にしては結構激しいラブシーンとなっています。

 三田佳子さんとのコンビは3作目。勝気な政子が頼朝を鞭打つシーンでは、相手が時代劇の大先輩の橋蔵さんとあって、どうしても鞭が打てず、NG続出。最後は目をつぶって振り上げたということです。

 一方、ひたすら頼朝に尽くし、頼朝と政子の恋が表立ってくると、今までの平安な日々を懐かしみ、嫉妬の炎に身悶える桜町さんの志乃。兼隆の行列をけがした咎で、管領に鞭打たれながらも必死に食料を護ろうとし、顔中涙でくしゃくしゃにして、懐から餅を頼朝に差し出す志乃。やがて、頼朝が政子との逢瀬に頻繁に出かけるようになると、この馬が憎い、と政子から贈られた頼朝の大切な馬を売り飛ばしてしまう志乃。頼朝を慕う乙女の恋心が切なく、いじらしいほど。この役で桜町さんは単なるお姫さま女優から新境地を開いたといえるでしょう。

 

匂いたつ様式美

 生きて恋を得る。そのときが源氏再興の時・・・平家の横暴にも耐え、配下にも本心を打ち明けずにいた頼朝が、兼隆に嫁ぐ政子の祝言の場に決然として斬りこんで行く大詰め、颯爽とした橋蔵さんに、思わず手を叩いてしまいます。

 前述したように、史実は挙兵の2年ほど前に政子は頼朝の妻となり、北条氏は源氏方についているのですが、この作品では祝言の場という緊迫した状況を設定し、婚儀さえすませてしまえば政子は北条氏とは無縁、と、平家に従わなければならない時政の苦渋を思いやる頼朝の配慮と英知を強調させるものとなっています。双方の刃が乱れる中で、じっと動かず顔色も変えない三島雅夫さんの時政が印象的です。

 後から応援が来るとはいえ、単身鎧も着けず敵方に乗り込んでいく頼朝の姿は、実際にはありえないことですが、そこは娯楽時代劇の醍醐味。敵方を次々と斬り倒していく橋蔵さんの立ち回りの美しさ。歌舞伎と映画を融合させたスター・橋蔵さんの様式美がここにも見られます。髷がほどけ、総髪になったときの匂いたつような色気。

 ちなみに小川順子さんの『殺陣という文化』によると、映画の中の決闘場面は、日本の時代劇は水平移動、欧米の映画は垂直移動なのだとか。これは建物の構造によるもので、障子や襖を蹴り破って進む屋敷内での立ち回りと、塔などの階段を上下して戦う背景の差なのだそうです。

 

 霊峰富士をのぞむとき、頼朝ならずとも人はみな心なぐさめられ、晴れ晴れとした気分になれるものです。挙兵した源氏の軍勢が富士の裾野を進む最後の場面は、今までの流人として耐え忍ぶ日常から解き放たれた頼朝の明るい未来が感じられ、観客はここで胸をなでおろすことができるのです。

 

 

(文責・古狸奈 2011626