「いれずみ半太郎」

 

「いれずみ半太郎」

       1963210 東映京都作品)

  原作・長谷川 伸(「刺青奇偶」より)

  脚色・野上龍雄

  監督・マキノ雅弘

 

  <配 役>

   半太郎  …大川 橋蔵

   お 仲  …丘 さとみ

   初 造  …長門 裕之

   金 八  …多々良 純

    おせき  …東  龍子

   小 平  …河原崎長一郎

            お 糸  …立川さゆり

ものがたり

 賭場で重ねた借金の10両を踏み倒して、江戸を逃げた半太郎は今では渡世人姿もすっかり身についている。やっと10両の金が貯まり、1人江戸に残した母のもとに帰ろうと決心した半太郎だったが、身投げをしようとしていた宿場女郎を救ったことから、運命は変わっていく・・・

 

苦労人、長谷川伸

 原作者・長谷川伸(18841963)は明治17315日、横浜黄金町に生まれました。本名は長谷川伸二郎。小説家、劇作家として活躍し、山野芋作、長谷川芋生、春風楼、浜の里人,漫々亭などのペンネームも使っています。

 4歳のとき、実母と生き別れ、47年後に再会した経験から『瞼の母』(昭和5)が生まれました。子供時代に家は破産し、小学2年で中退、一家離散、と幼い頃から人生の辛酸をなめて育ったようです。

 明治40年、「都新聞」に入り、山野芋作の名で、連載ものを執筆。大正11年、『天正殺人鬼』、翌年、『夜もすがら検校』が出世作となり、その後、『瞼の母』(昭和5)、『一本刀土俵入り』(昭和6)、『沓掛時次郎』(昭和9)、と名作を世に出し、文壇に確固たる地位を築きました。大正末期の大衆文芸創成期の立役者の1人とされています。

 長谷川伸は苦労人で、努力家で、生涯「一市井の徒」の精神で過ごしたといわれています。

 戦前から後進の育成に努め、研究会「二十六日会」、「新鷹会」、「冬至会」などに、月1回自宅を開放。山手樹一郎、村上元三、山岡荘八、戸川幸夫、平岩弓枝、池波正太郎などの作家が育っていきました。昭和38年(1963611日、心臓衰弱のため死去。78歳。

 

大幅に違う原作と映画

 原作の『刺青奇偶(いれずみちょうはん)』は1932年(昭和7)、中央公論社から発表された戯曲で、橋蔵さんの養父、6代目菊五郎丈も演じています。

 芝居では2幕7場。序幕…①下総行徳の船場、②同じく常夜灯脇、③元の船場、④破ら家。大詰…①江戸の柳(夢)、②品川の家、③六地蔵の桜、といった構成になっています。

 映画との違いはまず物語の舞台が小田原でなく、千葉の行徳となっていること。お仲が身投げしようとしたところを、半太郎が助けるのは同じですが、宿場女郎を足抜きすることの重大さにはふれず、お互い好きあって旅をする設定。『旅笠道中』や『いれずみ半太郎』では、宿場女郎の逃亡を助けることは渡世人仲間では犯しがたい法度で、時には死を意味するほどの重い意味合いを持つのですが、そうした点には触れず、物語は進められていきます。

 そして、何よりも大きな違いは博打好きな半太郎が稼ぎを家に持ち帰らず、賭場ですってしまうため、貧しい生活が続くなか、病に伏したお仲が博打がやめられない半太郎を戒めるために、お仲の方から半太郎の腕に刺青を彫るというもの。しかも彫った刺青は「サイコロ」。

 一度は博打をやめると決心した半太郎が、最後は死んでいくお仲にせめて家の中を飾り立ててやりたいと、最後の丁半を政五郎と賭け、半太郎が勝つところで芝居は終るのです。

 

持ち味を引き出すマキノ監督

 このように原作とは大幅に違う映画『いれずみ半太郎』。これこそスターの持ち味を引き出すことに長けていたといわれるマキノ雅弘監督の真骨頂といえるでしょう。橋蔵さんと丘さとみさんの魅力を最大限に引き出し、哀しくも美しい恋物語へと昇華させています。

 特に丘さとみさんがお仲を好演。世をすねてふてくされた宿場女郎が半太郎と会い、ささくれ立った心が半太郎への好意へと変わっていく姿をみごとに演じています。本人も多くの出演作品の中で、『いれずみ半太郎』は好きな作品だとか。

 橋蔵さんにとっても新しい魅力を切り開いた作品といえるでしょう。賭場で借金を踏み倒して江戸を離れ、小田原でいっぱしのやくざになっている場面はいつも通りの格好いい橋蔵さんですが、賭場で借金が嵩んで母親に泣きつく半太郎の弱さやだらしなさ、お仲の死に直面して嘆き悲しむ姿はいままでの橋蔵さんの作品には見られない人間臭さを感じさせます。

 

見たかった西鶴もの

 この作品を見るたびに、東映がスターシステムをとらずに、橋蔵さんがもっと自由に近松や西鶴などの町人ものに出演することができていたら、橋蔵さんのまた違った魅力の映画が生み出されていたのではないかと思います。「若さま」や「新吾」のような美剣士はもとより橋蔵さんに一番適していることは間違いありませんが、そうした型にとらわれた企画に偏っていたことが、映画界での橋蔵さんの悲劇だったように思われてなりません。デビュー当時、『海の百万石』でみせた商家の若旦那役は橋蔵さんのもうひとつの可能性を秘めていました。

 しかし、東映ではスターの役柄と出演作品の傾向が決まっていて、代表作が『一心太助』の錦之助さんは町人、『若さま』の橋蔵さんは若侍、『丹下左膳』の大友柳太朗さんは浪人、と仕分けされ、オールスター映画になると、そうした役割分担は顕著でした。安心して見られる代わり、冒険はなく、マンネリに陥るのも無理のないことだったのかもしれません。

 後年、橋蔵さんは舞台で、『おさん茂兵衛』などを演じていらっしゃいますが、映画で近松ものや西鶴の『好色一代男』などを演じたら、きっと橋蔵さんならではの作品が生まれたのではないかと、あれこれ想像してしまうのです。

 

人間臭さや弱さ

 本題に戻りましょう。

この作品はお仲が身投げをしようとしたところを半太郎に助けられ、徐々に2人の気持ちが通い合っていく前半と、お仲の死に至る後半とで構成されています。

前半はふてくされてささくれだっているお仲の心が、半太郎に出会ったことで徐々に惹かれていく過程を丘さとみさんが好演しています。一方の橋蔵さんは何の関心も持たなかった行きずりの宿場女郎への哀れみが、徐々に愛情に転じていく半太郎をいつも通りの颯爽とした渡世人姿で演じています。

後半になると、半太郎の持つ人間臭さや弱さが全面に押し出されてきます。病に臥し、「女房の資格がない」と詫びるお仲に針を持たせ、間違いなく自分の女房だとお仲の名前を自らの二の腕に彫り、「死なないでくれよう」と祈る半太郎・・・

 あといくばくかの命しかないお仲を江戸の母親の元に連れて帰ろうと、一か八かのいかさま博打をし、12両の金を手にして戻ったのに、すでに死んでいたお仲・・・「こいつは死んでやっと幸せになれた」と言いながら、「何で俺をおいて死んじまったんだよう」と嘆き悲しむ半太郎・・・お仲の笑みを浮かべた死に顔と共に、より一層の悲しみを誘います。

 「殺したのはお前たちだ」と怒りの剣を振るったあと、お仲の亡骸を抱え、「半太郎はいい女房をもらったと伝えてくれ」と、見送る初造夫婦に言葉を残して、砂浜を歩く半太郎の後姿で幕を下ろすのです。余韻を残した演出といえるでしょう。

 

「東しゃあ大江戸 西しゃあ地獄」

 またさりげない場面に市井の厳しい現実が描かれています。半太郎が幼馴染の初造に「お袋はどうしてる?」と訊ねる場面。荷物を持った初造の背中が一瞬止まって、「元気にしているよ」。その実、「年老いた女が1人で生きられる世の中じゃない」と女房に語る初造。半太郎が恋焦がれている母親はすでにこの世にいないことを暗示しています。

 市井を描くという点では祭の夜、匿われた一膳飯屋で、百姓相手に半太郎が一節唄う場面。神奈川宿は今の横浜辺り。

「行こか戻ろか 神奈川宿エー 東しゃあ大江戸 西しゃあ地獄」の名調子。歌詞といい、実に印象深い場面です。追っ手から逃避行を続けている半太郎とお仲の西には戻れない厳しい現実と、江戸への愛着。2人の前にはだかる障害がそれを許そうとはしません。短い一節の中に2人の現状をしのばせる哀歓がこめられていて、しみじみと胸に迫ります。

 

映画界のサラブレッド

 初造を演じる長門裕之さんは父親が沢村国太郎、母親が映画界の父、牧野省三の娘、マキノ智子で、6歳下の弟が津川雅彦さん。母方の叔父がマキノ雅弘監督という映画界きっての芸能一家に育ちました。6歳で子役デビューしてから、多くの映画に出演してきましたが、日活時代は裕次郎の陰でどちらかというと目立たない存在でした。

しかし、58年の今村昌平監督の『盗まれた欲情』で大きく変化を見せ、『果しない欲望』(58)、『にあんちゃん』(59)、『豚と軍艦』(61)などに出演。『にあんちゃん』でブルーリボン主演男優賞を受賞するなど、当時、演技派俳優として頭角を現していました。

 橋蔵さんとは初共演。初造夫婦の存在が苦境に立たされている半太郎に希望を与え、見る者に安らぎを感じさせてくれます。

 

 全篇に漂う倦怠感や死の影・・・橋蔵さんの作品には珍しい暗い作品です。しかし、愛の証として、二の腕に「おなか」と名前を彫る場面はやはり泣かせます。刺青は原作の「サイコロ」でなく、「おなか」でなければいけないのです。名前を彫ったことで、単に宿場女郎とヤクザの恋物語から、身分や立場に関係ない人間本来の格調高い愛の物語へと昇華していくことができたのだと思います。

 『いれずみ半太郎』もまた、後世まで残ってほしい作品です。

 

 

(文責・古狸奈 20131126