「バラケツ勝負」

 

「バラケツ勝負」

     1965213 東映京都作品)

  脚本・比佐芳武 

  監督・松田定次

 

  <配 役>

   武村 久雄 …大川 橋蔵

   武村久五郎 …志村  喬

   相良 主任 …大木  実

    妙   子 …藤  純子

   お か つ …久保菜穂子

   花   奴 …桜町 弘子

   佐和 勘吉 …山城 新伍

   木下 鹿造 …曾我廼家明蝶

                秋月京太郎 …内田 良平

ものがたり

 大正初期の神戸湊川新開地。当時そこは最大の歓楽地帯で博徒、クスブリ、バラケツなどの争いが絶えなかった。

 地元兵庫県警の鬼刑事、武村久五郎には久雄という勘当した息子がいたが、彼はバラケツ仲間に顔を売っていた。

 ある日、久雄は花奴と酒を酌み交わし泥酔してしまう。夜中、転寝から目覚めた久雄は傍らで花奴が死んでいるのを見て驚愕した。手には血にまみれた匕首が握られていた。

 あわてて逃げ出す久雄。警邏中の久五郎は久雄の仕業と思い、久雄の代わりに自首して出るのだった・・・

 

唯一の非まげ物映画

 『バラケツ勝負』は大正初期の神戸湊川新開地を舞台にした、橋蔵さん唯一の非髷物映画です。

脚本は草間の半次郎シリーズなど多くの橋蔵さん主演作を手がけている比佐芳武氏で、監督は『新吾十番勝負』の松田定次氏。ミステリー色が強く打ち出され、他の任侠映画とは一線を画した作品となっています。

橋蔵さんの役どころは父親が後妻を娶ったことに反発して、不良仲間に身を投じ、勘当された息子の久雄で、父親の久五郎は兵庫県警の鬼刑事という設定。親子とも表面上は親でも子でもないと突っぱねていますが、内心は肉親の情が残っていて、特に志村喬さんの父親の子を思う心情には切ないものを感じさせます。殺害現場で犯人は息子の久雄と思い、血まみれの匕首を手に息子の代わりに自首。刑務所内では断食を続け、心配する看守に「喉に通らんのです」と答える切なさ。志村喬さんの久五郎の存在が他のやくざ映画と違って、作品を情感あるものにしています。

 

可愛らしいすっぴんの橋蔵さん

この作品は橋蔵さんにとって、唯一の髷をつけないザンギリもの。

目張りも白塗りもないすっぴんの橋蔵さんの久雄は何とも可愛らしいのです。目がくりっとしていて、下膨れの顔がいかにも育ちのいい家のお坊ちゃんがグレて不良になったという感じ。そのせいか生活臭がなく、勘当されているにもかかわらず、居候たちを養っていくための生活費のことなど、関係なさそうに悠々としています。

相変わらずのモテモテぶりで、藤純子さんの妙子、久保菜穂子さんのおかつ、桜町弘子さんの花奴と3人の美女に好意を寄せられる、プレイボーイという役回り。ならば、橋蔵さんが美女一人ひとりを口説く場面を見たかったような気もするのですが・・・

物語の前半は久雄と久五郎親子の相克や博徒の殴りこみ、秋月京太郎の訪問など、登場人物や物語の伏線を描き出すことを主に進められていきます。久雄の傍らで花奴が殺害されてからの後半はミステリータッチ。犯人捜しに焦点が合わされ、物語が展開していきます。

秋月京太郎の内田良平さん、木下鹿造の曾我廼家明蝶さんが好演。敵役の佐藤組組長として、のちに『銭形平次』の万七親分でレギュラー出演された遠藤辰雄さんの顔も見えて、作品を楽しいものにしています。

 

戦後寂れた新開地

映画の舞台となった神戸湊川新開地は現在の神戸市兵庫区。JR神戸駅西300メートルあたりから北へ延びる一帯で、戦前は隣接する福原と共に歓楽地として繁栄していました。

戦後は進駐軍に接収され、なかなか返還してもらえなかったことから復興に遅れをとり、市役所が三宮に移動したこともあって、急速に寂れていきました。「ええとこええとこ」と謳われた新開地は浮浪者がたむろし、隣の福原がソープランドやラブホテルなどの風俗営業の街に変貌したこともあって、荒廃したいかがわしいところというイメージが強くなってしまったのです。

今でも地下を神戸高速線が走る多聞通りの北側は、パチンコ屋や競艇の場外券売り場などが並んでいますが、震災後、街に活気を取り戻そうと、JR神戸駅に近い一帯はホールやシアター、練習用の貸アトリエを備えたアートビレッジセンター、新劇会館、大衆演劇の新開地劇場などが整備され、芸術の発信地として面目を一新しています。

 

甘さや気品が邪魔をして

ところで、このとき橋蔵さんは35歳。東映の任侠路線に沿った初めての作品でした。

普通、任侠映画の主人公は凄みがあり、人生の辛酸をなめた陰影を感じさせる俳優が適しているように思われるのですが、橋蔵さんの場合、甘さや気品が邪魔をして、凄みが出てこないのです。一言で言えば、橋蔵さんのキャラクターではないのです。

この作品の場合は、ミステリータッチでうまく仕上がっていますが、任侠映画を撮り続ける場合、いつまでも良家のお坊ちゃんやくざを演じるわけにもいかず、『バラケツ勝負』が年齢的にも限界だったように思います。おまけに舞台は神戸。東京ならば歯切れのいい江戸弁の橋蔵さんの魅力が引き出せたかもしれないのですが。

『バラケツ勝負』が封切りされたすぐ後の「キネマ旬報」誌上の匿名座談会で、「橋蔵はまったくへなへなして」とあり、「『バラケツ勝負』の不調で、次回に予定されていた『飛びっちょの鉄』の撮影が中止、橋蔵の映画出演はしばらく様子見となった」、と書かれていました。橋蔵さん、まったく踏んだり蹴ったりでしたね。

 

東映、任侠路線で生き残り

65年ともなると、テレビの普及により、映画界は急速に下降線をたどっていて、東映も任侠ものやエロやセックスを主体にした路線へと変更していました。先日の新文芸坐で中島監督がトークショーで語られたように、映画館でしか見られない作品を製作することで、東映は生き残りをかけていたのです。健全な作品はお茶の間のテレビで、映画館は限られた層の欲求を充たす暴力やエロなどに特化されていきました。

そうした中で、橋蔵さんは自分の映画界での立場や将来について、随分と悩まれたのではないかと思います。東映との契約も10年の節目が来ていて、決断を下さなければならないときでもあったようです。

おまけに当時、橋蔵さんは結婚問題でも週刊誌などで取り沙汰されていました。あれこれ書き立てられ、映画の出演数も減っていたので、このまま干されてしまうのではないか、と随分とやきもきしたものです。

もっともこの時、橋蔵さんは「東映歌舞伎」など舞台に出演されていて、一般のファンの見えないところで活躍されていたのです。この経験が橋蔵さんに舞台への郷愁を呼び覚まさせ、のちの歌舞伎座や明治座、大阪新歌舞伎座での定期公演に繋がっていったのでしょう。

 

結局、橋蔵さんはテレビを選ぶこととなりました。665月、フジテレビの『銭形平次』で堂々復帰。その後、18年に及ぶ金字塔を打ち立てました。また、年3回の舞台で、舞踊家としての本領を発揮していかれるのです。

この『バラケツ勝負』は橋蔵さんの映画からの決別と転機を促した作品といえるでしょう。一方、この時共演した藤純子さんは「緋牡丹お竜」として、任侠映画路線の東映映画にあって、大輪の花を咲かせていくのです。

 

 

(文責・古狸奈 20121010